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  映像研究

時間の感覚

・202005291148。日記を書くことが生活に追いつく金曜日の昼。業務に追い立てられながらもまずは心身ともにコンディションを保つことを優先してみる。朝、同僚が送ってくれた斎藤環という人の文章を読みながら、この二ヶ月を振り返ってみた。確かに「時間感覚」について思い当たる節があると同時に、2011年の時点で既に歪み捻れた時間を生き始めたという感じもある。その時間の続きの現在にいる今は確かにまた別の、時間の感覚に対する力がはたらき始めたのかもしれない。一方で都市の規模/国家の規模/星の規模で起こる出来事とは別に、個人の/親密な他者との/小さな共同体における出来事もあり、たとえば2011年と2020年の間に起こった、結婚したことや親が死んだことが時間の感覚に与える影響もある。それらは、それぞれが別々の出来事であり別の影響を与えるのだが、いずれも「この生が続いている/続いていくであろうと考えている」ことに対して、その生を一瞬凍りつかせるような感じを与えたのではなかったか。その感じから自分の新しい思考が始まったかもしれない。一般化する必要はないがこうした「感覚」と「思考の変化」つまり自己の変容を、時には他者の前で開きたいとも思う。

 

 

 

・開くための準備。近い過去の思考と現在の自分を向かい合わせるために、近い過去の自分と仮想的な対話を試みるためにこそ日記があった。3月17日の日記において「2011年に考えたことが地理的なこと(移動、分断、距離・・・)であるならば、いま考えを更新せざるを得ないのは、時間的な同時性ということについてかもしれない」と書いていたが、確かに、3月17日の段階で自分がそのように考えていたということ自体は薄ぼんやりと消えかけていたかもしれない。あるいは、かつて電車によく乗っていた頃には、よく「人を見る」ことをしていたな、ということを今考えてみる。たった二ヶ月前を遠くに置いてみるために。そして来週6月1日からは自分もまた再び電車に乗るだろう。別の思考が始まる。たとえば電車という公共空間とは何であったか。車の移動を主としたことで電車という存在に対して、それを思考の対象として捉えることができるようになった。そういう思考の始まりは今後もいくつもあるのだろう。あるいは「時間」という概念そのものに対して、そのような思考をはたらかせることもできるのだろうか。わからない。いつか意地のように書き続けてきた日記を別の時間から眺めるように読むこともあるのだろうか。わからない。わからないので中断。