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  映像研究

備忘録

 
・201901131528。記録を残しておこう。丁寧な言葉でなくとも。何かが起こり起こり続けていることを忘れないように。二日続けての休日、しかも新年会以外何も予定がない。本を読んだり勉強をすることはあるのだが、ふっと足が止まってしまった。物を買うことに気持ちを持っていかれるとやるべきことを忘れてしまう。普通に反省。昨日は何も考えずに当面やりたいことだけをやった結果、散髪をして、買い物に行き(洋服を見るだけ)、図書館で仕事に必要な図録を借り、銭湯に行き(休みだったので温泉施設的なところへ行き)、家でビールとワインを飲み、NHKオンデマンドで資本主義についての番組を見て、気がついたら寝ていた。それが自分のやりたいことなのだと思う。ニュートラルな気持ちでいる。発信することも特にないのだ。

・明日からまた業務が始まる。自分は言葉を話すことが仕事で、言葉を話すこととともに話を聞くことが仕事だ。話を聞き、しかし聞くだけでなく話すことが最終的な納品になっている。だからどういう事柄についてどういう感じで話しているかを点検することは、自分の労働にとっての品質管理のようなことである。つねに品質を疑っている。それが偽装されたものでないと保証できない。自分で自分を証明することができない。ポストフォーディズム的労働環境における「話すこと」はつねにこの「自分自身の言葉の質を疑うこと」によって拡大しているのか。言葉(の質)を疑い、疑うことは苦しいから、何か別の権威が必要であるような気になる。ある人はSNS上でのフォロワーの数を自分の言葉の質の根拠にするだろう。ある人はgoogleでの検索結果を気にするだろう。前述したNHKのドキュメンタリーでは「googleは神である」とされていた。「amazonは消費のすべて」で、「facebookは愛のすべて」で、「appleは自分を魅力的に見える意味でセックスの象徴」であると。神、消費、愛、セックスの象徴である私企業の頭文字を取って「GAFA」。

・神があなたは何番目かを示すのだ。自分の名前で検索をして、自分の名前が一番上でないことは恐ろしいのだろう。神によってオリジナルの権威を与えられるということなのだろうか。自分に関わる情報が何千、何万と出てくることが重要なのだろうか。重要なのだろう。自分も重要だと思っている。同時に何かが根本的に間違っているとも思っている。何かが絶対的に間違っていて到底許すことができないが、決して変わることもないであろうこの世界から早く消え去りたいとも思っているが、消え去ることを自分自身で決めるべきではないような気もしている。誰もが適切な偶然のタイミングによって消える。

・「自分自身の言葉の質を疑うこと」についてだった。椎名林檎はかつて「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか」という問いをメロディにした。当時はさして面白くもない歌詞だと思ったが、いま20年が経ってふと「太陽、酸素、海、風、もう十分だったはずでしょう」と言葉にしてみたくはなる。いま「言葉から離れたい」と言葉を発したならば、絶賛「データコードはいかがでしょう」と勧められるような気がする。データコードを扱う仕事をしている人々は、言葉に対してメタ言語を、コミュニケーションに対してメタコミュニケーションを扱うことによって、日々の生活を穏やかに過ごしているのだろうか。もちろん「自分自身の言葉の質を疑うこと」はあるのだろうが、「自分自身のデータコードの質を疑うこと」と「自分自身のコミュニケーションの巧みさを疑うこと」は別の事柄だから、自分と「言語」を切り離すことができるのだろうか。何のことだろう。極めてユートピア的な、隣の芝生の話ではある。

・「自分自身の言葉の質を疑うこと」を健全に継続する唯一の方法は、(たった数百年の)古来から「読書」だった。本を読み、本に応答するように言葉を記すことが、自分の言葉を問い直す、考えられる有効な方法であるように思えた。そこに反論の余地はない。言葉以外の伝達として考えられるのは視覚つまり映像に関わる。ビジュアルランゲージ。イメージリテラシー。それは何か。パフォーマンス(自分自身の動きで示すこと)ではない。それはただ何かを指し示すことである。「これを見てください」と声にせず示す。その指差した先に存在するものが映像であり写真だ。それは言語とは全く別の事柄であり、自分がこの5年で学んだ一番大きなことは「言語のリテラシーを映像のリテラシーと混同しない」ということだった。そのことを学ぶためにいくつかの仕事を引き受けたのかもしれない。あるいは「映像のリテラシーとは何か」ということを、唯一ではない複数の事柄として、しかも基本的には言語によってどのように記述できるか、ということを忘れず少しずつでも継続していくことが、回り回って自分自身の「自分の労働にとっての品質管理」になっているという希望的観測です。

・新年会で話したいのはそういうことだった。