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  映像研究

少しだけ別のやり方

・201910210925。貴重な休日に今日は図書館ではなくて家で作業してみようと思う。思い立ったときに資料に手を伸ばすことができるからという理由だが、気分を変えてみる。それでだめならば午後から出かければ良いのだ。昨日の夜は過去の出来事を思い返していたら一瞬で数時間が消えた。それは音楽のせいなのか季節のせいなのか。Clairoという人のSoftlyという曲が何かを喚起した。約3分の曲。写真を見ているときも一瞬で時間が消える。盗まれるように。映像は時間を意識を盗む。よくありそうな言い方をすれば、資本はそのことを熟知していて、あらゆる場所であらゆる意識を盗もうとしている、ということなのだと思う。このテキストを書いていることもその収奪から自由であるわけではない。しかし「写真を撮ること」や「写真を見ること」の経験には、そうした関係からの自由が備わっているのではないか。あるいはある条件が整えば(ある偶然が訪れれば)写真を見る経験は、消費のシステム/テクノロジーとはまったく別の次元の知覚を成立させるのだと考えられる。これを個人的な信仰ではなく、確信すること。ステートメントのような文章になってしまった。

 

・自分の写真の経験、自分の写真の記憶に何度も立ち返らなくてはいけないことは(義務ではないが実際に自分がそうしていることは)なかなか凄いことであると思う。10代後半に見たものが決定的に自分の「見ること」を決定していて、その視覚を「これは任意のフレームである(フレームにすぎない)」と相対化しようとしても、何度も戻ってくる。いっそこのことを批評的なユーモアと考えられるのならば世代的/カテゴリ的にも渋谷直角という人が書く言葉のような表現になるのだろうか。そのようなタフな捻れ方は自分にはできないし耐えられないだろうと思う。高橋恭司という写真家が「個人で表現すること自体がアナーキーなこと」という言葉を話していて、それが数十年前とは異なる現状の認識なのだと思う。写真を撮る行為自体の意味も変化する。あるいは写真を撮る行為の社会的な意味は更新され続けている。そのことを傍に置きながら。

 


Clairo - Softly