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  映像研究

想像

・201910131120。職場の近くのコーヒーショップにて。濁流になった多摩川を渡り眺めながら職場の最寄り駅まで来てみた。晴れていて気温が高い。比較的風が強い。大きな出来事があった翌日に視界が輝いて見えるのはなぜなのか。

 

・昨日は「災害に備える」一日を過ごす。午前は妻の実家で鉢植えなど運ぶ。帰りのコンビエンスストアで棚の様子など見る。確かにパンと水が欠品していた。新聞を買う。自宅のベランダの物を家の中へ入れて、入れるのが難しいものは可能な限り固定する。「飛来した物によって窓ガラスが割れる」ことを想像して、窓ガラスの全面に銀マットや布を貼る。「もしも窓ガラスが割れたならばどうなるのだろう」と初めて想像した。寝室が雨ざらしになったならば、デスクのある作業部屋で寝ることを想像する。停電することを想像してエネループ的な電池をすべて充電する。停電したならば家のインターネットは使用できないので、携帯電話のテザリングでどれくらいの時間インターネットに接続できるのか想像する。災害に備えることは想像することなのだと気付いた。日々の生活の中ではしない種類の想像をする。

 

・幸いにも自分の家は停電しなかったのだから、夜半まで各地の状況を調べ見る。川について調べる。家の近くの分水路について知る。出来事が起きて初めてインフラが意識されることも、それはやはり震災の時の思考と似ている。友人とオンラインで会話。お互いを気づかう。そのことで安心する。そういった一連の思考と、朝が来て視界が輝いて見えることのあいだには何か関係があるようにも思う。

 

・何か出来事が起こると政治的な陣営の攻撃の方向も顕在化する。端的に言って「叩きたかったものを叩く」。必要な批判もあるが不用意な発言も紛れているのだと思う。注意深くなる。そして必要な情報と叩き合う発言の隙間に「この流れによって見えなくなっているがその裏ではこのような事態が進行しています」という種類の発言がある。一段階メタな位置からのしかしそれも一種の「叩きたかったものを叩く」発言のバリエーションでもある。本当になにが起こっているのだろうかと思い、自分の生活のこととは違うことも想像する。

 

・何かが起こると、否応なく「自分が本当に何を大切だと考えているのか」が明らかになる。答えのようなものが出されたと思うことには注意深くあるべきだが、思考を深める手がかりのようなものが、目の前に差し出されたように感じる。自然の出来事に対して、それを精神的なものとして読むことでもなく、人間の営みと完全に切り離して達観するのでもなく、見ること、識ることは可能かと考える。風景を見ることについて考えている。