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  映像研究

夏休みはもう終わり

・201908300906。図書館の開館とともにin。人はまばら。大きなテーブルの端に席を取って窓の外の景色を見ながら今日の予定を立てる。夏の終わりの雨。何かを思い出しそうになる天気。図書館は良い。自分の家の作業する部屋も図書館化しつつあるがそれよりも図書館の方が良い。車で来て駐車場代を払っているからちゃんと作業をしなければという微妙なプレッシャーも良い。ふと後ろを振り返ると「ドイツ文学」の文庫本の棚に岩波現代文庫のパサージュ論が1巻から5巻まで揃っているのも良い。目の前の雑誌コーナーにはポパイや&プレミアムがあるのも良い。ギンザもあると良いのだけれども。

 

・昨日は午後から微妙な業務で都心に出る。予定通り少し早く終わったので神保町へ。某古書店で清野賀子の写真が掲載されている雑誌を購入するかどうか悩むが保留。研究のため、などと口実を考えるがやはり高額なため躊躇してしまう。以前にも同じ逡巡があった。いつかどこかで出会うだろう。忘れないうちに記しておく。掲載された写真は17枚ですべて横位置。2003年に東京で撮影されたらしいその写真はしかし、今見るともっと古い、少なくとも20世紀に撮影された写真のように感じる。17枚のうち2枚は映像の複写である。『A』と『ゆきゆきて神軍』。17枚の写真の後には見開きで真っ白なページと真っ黒なページが挿入されている。ここまでが写真だろうか。

 

・せっかく神保町に来たからゆるく探していた(いる)「雨の日に気軽に履ける防水のスニーカー」を見る。20年くらい前にはラ・スポルティバとかモントレイルとかガルモントとかのローカットの靴があったが、気がつけばダナー一択になった。今新たに購入するならばサロモンなど良いのではないかと思うが、気になっていたモデルは売っていなかった。諦めて手ぶらで帰宅。中断。

 

・帰宅して晩御飯を済ませて再び机に向かってみる。「消滅の技法」を最近あらためて読んでいるが、ある意味であまりにも当たり前のことしか書いていない。身も蓋もない。ただの事実というように思える。そしてだから「ただの事実」のような写真を撮ったのだろう。ロマンティックではないがスピリチュアルではあるかもしれない。あまりにも当たり前のことが書かれている文章を前に、だから自分も、こんなテキストを読み、読みこみ、読み進めることが一体何になるのだろうかと考えないこともない。掘れば必ず金が出るというものでもない。しかし掘れば結構な確率で温泉に突き当たるかもしれない。そう思いながら読んでいる。日本語訳からのメモ。

 

イメージは、適正な使用法を考えなければならないような媒体ではない。イメージはイメージでしかなく、わたしたちが考えるあらゆる道徳的枠組みの埒外にある。

 

 

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