&

  映像研究

広告

・201907220917。月曜日の朝。休日なので今日はデスクでやれることをやる一日にしようと思うが、昨日の選挙の結果によって、あるいは先週の京都の事件によって、もしくは日常の淀みのようなものによって、考える身体は重くなる。そうした重い思考に生活のすべてを持っていかれてしまっては仕方がない。心身をある程度健康に保つことによってこそ、継続できることもあると思っている。思っているが。

 

・今朝最初に見たtwitterのタイムラインに陸上自衛隊の広告が普通に流れている衝撃。自衛官のインタビューらしき映像は「前職から転職していかに生活が安定したか」というメッセージを伝えようとしているが、それは明確な徴兵の広告だと思う。「生活が安定する」という言葉の「安定」という語が間違って使われていて、それは正確な意味での「安定」ではない、のではないか。しかし「安定」を求めた結果「国のために命を投げ出す」ことに違和感を提示しても、それを踏みとどまらせるだけの別の価値を提示しなければメッセージは届かない。生活を繋ぐべく選ぶ唯一の選択肢が自衛隊なのだろうか。希望に訴えかけるのか、絶望に訴えかけるのか、考えている間に、「安定」という看板を掲げた何かに吸い取られてしまう。

 

・しかしそこで自分が何かから逃れていると考える方が間違っているのかもしれない。株式会社の広告を作る私は既にある意味での戦争に巻き込まれていると、立ち止まって考えた時にはいつも思う。あるいは教育もまた恐ろしいと考えることがある。「広告を作ることを促すことは現状の社会を無批判に追認することに繋がるのではないか」「映像を作ることを促すことは体制にとって都合の良いインフラを敷くことを助けることに繋がるのではないか」「エンターテイメントを作ることを促すことはこの社会が病んで壊れていることを包み隠すことに繋がるのではないか」。「繋がるのではないか」の思考は際限がなく、いつも考えているととても心が保てないが、しかし時々は考えなくてはいけない。

 

mrtr.hatenablog.com

 

・そうか、あれは2017年の10月だったのだと日記を読んで思い出す。中断。