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  映像研究

報道の記録

・201907190915。昨日の午後に京都の事件を知り業務のあと少しずつ情報が更新されるにつれて気持ちが重くなる。想像もしていなかったようなことが人の手によって起こされる。「どういうことなのだろう」と思う。ニュースの言葉は端的に事象を伝達するが、何か理解できないような気持ちがある。何かと比べることができないし、それが起こらなかった状態に戻ることもない。「しないほうがいいのかな」と思いつつ、SNSをスクロールする。その手を止めて記録するために言葉を書いてみる。

 

・自分はアニメーション自体を熱心に視聴していないし、事件があった会社についても草創期の仕事(Wikipediaで調べた)以外はほとんど知らない。そういう意味では意識的に「別の文化として」距離を置いていた(いる)。それでも少し前にたとえば『アニメ制作者たちの方法』という本を読み、アニメーションという仕事自体に対する考えが少し更新された。具体的な仕事が言語化されることで、アニメーションを制作する中でどういう喜び(快楽ではなく)があるのかというを想像してみた。いつかそのことをもう少し考えてみたいとも思う。

 

・アニメーションを制作する会社で働くことを志望しているかもしれない学生と接する機会がある。そうするとどうしても「報道されている建物の中にいた人は誰なのだろう」と考えてしまう。その人たちは、どういう手つきでどういう表情で何を見て・・・という想像をしてしまう。想像を止める。その建物が「会社」でありしかも「アニメーションを制作する会社」であったことは偶然なのだろうか。そうではないのだろう。あるいはこれを「無差別な殺人」と言えるのだろうか。「無差別」であっても、必ず或る場所で、或る人たちに暴力が向けられる。暴力を超えた何かが向けられる。偶然とはどこまでが偶然なのか。

 

・自分は事態を慰める言葉を持っていない。考えるほどにわからない。この事件(事件と言ってよいのだろうか?テロとは何だろうか?)についてこの先考えることがあるのかどうかもわからない。極限の悪をはたらいたのは一人の人間である。悪は一人の人間のなかで増大したのだろうか。それは一人の人間のなかのことであっても、必ず周囲には環境があるはずだと考える。一人の人間から環境へと悪の源をスライドさせることなく、一人の人間に(その存在に)焦点を当てたままで、その一人の人間と周囲の環境との関係を考える。考える材料は自分にはまだないと思うから想像するのだが、いつかマス・メディアによって与えられた情報から、何かを考え始めるかもしれない。そのときは一層注意深く考えようということだけを忘れずにいたい。

 

・中断。