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  映像研究

まだ加速

・201906070922。時間がない。書く時間だけがない。電車に乗り本を読むことを祈りあるいは呪いのように続けながらも、労働にまつわるいくつかのことを並行して考えているとそれだけで疲弊してしまい書く時間までたどり着けない。睡眠時間を確保して体調をニュートラルに保つことで精一杯に思えているがどうなのだろう。映像を集中して見る時間がないことも気にかかるが、ともかく焦らず、少しずつ再開しようとすること。

 

・自分自身は加速することなく日々を過ごしながらも仮想的な宛先(敵ではなく)としての「加速主義」については引き続き考えていた。「何が」「どのように」「加速」しているのだろうか。4日に東京藝大に聞きに行ったロージ・ブライドッティという人は「なんとかスタディーズ」や「なんとかヒューマニティーズ」の拡大(拡散?)に「加速」の一端を見ていたけれども、それだけでは業界のトピックでしかない。加速とテクノロジーは強い繋がりがある。「加速」を焦点とすることで、政治とテクノロジーの関係を可視化できるということなのだろうか。厄介なのは、とこのように言ってみて、多くはそうした言葉を書くこともまたiphone的なもので行なっているのだから、発言と思考はメタ的に、というかパフォーマティブなものに滑る。無自覚にメタな思考は、考えを育てていくことにとって厄介なことなのではないか。

 

・95年の段階でボードリヤールは「われわれの誰もが携帯電話を内蔵される存在となった」と書き(『完全犯罪』)、それは現状の忠実な描写であると同時に少し先の未来を写していたように思われる。ドゥルーズの管理社会の件も1990年前後であるならば、その時代にヴィデオとコンピュータネットワークが接続されることを前提として、ある社会のヴィジョンが描かれていたということになる。まだiphoneは姿を現していなかったから、「脳にケーブルを接続するようにして」「鎖に繋がれるようなものとして」イメージされていたのかもしれない。現実の未来はもちろんまた別様だった。

 

・誰もiphoneを叩き壊すことをしない。嬉々として画面をなでる。実写や絵といったカテゴリは重要ではなく「イメージと遊ぶこと」を誰も楽しんでいる。便利な道具ではある。誰も叩き壊すこともできず、しかし誰も完全に陶酔することもできない。その意味で冷めているのではないかと思う。『政治的省察』という本の「シニシズム」について書かれている部分を興味深く読んだ。主に「政治」についての「シニシズム」として書かれているテキストは、テクノロジーやイメージに対するシニシズムとしても考えることができる。イメージに対して批判的であることと、イメージに対して徹頭徹尾悲観的であることは違うことだと思う。そこでイメージと「信じること」の問題を立てれば『シネマ』を読み返さないといけないのだろうか。

 

・「写真」と「信じること」の問題は、また別に立てることができるだろう。写真における記号的な観点から「質量」へ、そして「存在」へ、というぼんやりした方向を示すキャッチフレーズ的なものが浮かんだが、まだ考える必要がある。