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  映像研究

「何を考えているのですか」

・201904200946。嵐の前の静けさでもなく連休の前の空白。「大型連休が迫っている」は「猛烈な台風が向かってきている」に似ていない。しかし新学期とともにスタートでダッシュをかけるにもすぐに大型連休だから、とりあえずそれまでは試運転で本格的には大型連休明けからで良いのではないかと思っている人がいる。自分など。ともあれ大型連休を大型にする程度の準備はしておかなくてはいけない。主に業務の連絡。季節感に少しの歪みが生じるのは大型のせいなのか。改元のせいではないか。春の暖かな陽気のせいで気がつきづらいがうっすらとベースノイズのように年の瀬感が漂っている4月の終わり。4月30日/5月1日という点に向かって強制的にアゲさせられる。精神の駆け込み消費。世相をパブリックにヴューイングしたい。そうしたムードは本来自然に感じられるはずの五月病的なものを別のエネルギーに変えるのだろうか。

 

・春は残酷な季節である、とちょうど昨日出席した講義でエリオットの『荒地』を引きながら話されていて、それを聞いていた自分はふと「土の中」のイメージが浮かんだ。土の中の比較的浅い層で微生物はかつて生きていたものを別の段階へ生成させる。動物も昆虫も植物も腐って土と「なる」。個体としてのかたちが失われる。腐葉土。一本の木だけでも循環があり同時にその循環は他の木や他の色々な要素を巻き込んだ循環であるだろう。葉が落ち土になる。そして種。地上で獲得された種は一度土の中に潜ることで「もう一度」地上に浮かび上がってくる。なぜ土の中でなければいけないのか。空気でも水でもなく土とは何か。来月熊本に行ったならば毎日土に触れて、土を見て、土と協働している友人たちにぜひ聞いてみたい。

 

・そして自分はその土の中のイメージと、写真とカメラの問題を接続して考えていた。地上のネガティブとしての土の中をイメージしたならば、カメラ=暗箱と外界のような関係が想起される。カメラという土の中。微生物としてのフィルム。あるいは微生物的なものとしての現像液。分解としての現像。もちろんカメラは生命的なものとは関係がない。しかしフィルムは薬品による変化を経る。一度種が土の中に潜るように光は暗箱に吸い込まれるようにして在る(向かう)。暗箱~暗室で薬品をくぐる。その表面はどろどろ・ぬるぬるしている。一方で撮影を生殖のメタファーで語ることは安易(カメラ=胎内)かつその現象を「光がフィルムに着床する」的に二つの要素へ還元する意味で齟齬しかないが、むしろ複数の要素が分割し難く協働していることについて考えてみたかった。同時に、自然の循環を基準として(理想ではなく)考えたとき、その循環に抗うようにして存在する物質のあり方は決定的に異なる。

 

・「写真のメディウム」というときに、平面性やフレームの問題に接続するのは良くも悪くもフォーマリスティックな態度であるし、シャッターを押す瞬間を特権化したならば「関係性」のような問題にスライドするような予感がある。痕跡=インデクスは確かにその通りであるのだが、そのもう一歩先を考えたい。ボードリヤールが「コンクリートは、まるで概念の作用のように諸現象を秩序立て、思いのままの形をとらせることを可能にする、精神的物質なのだ」というとき、その物質でありながら自然の循環に抗する存在の特異性が書かれている。漆喰=コンクリートシミュラークルの第一の領域だが、この第一の領域にあるものとしての写真ということを考えられないだろうか。どろどろ・ぬるぬるしたものとしての写真。土の中のフィルム。研究のメモ。