&

  映像研究

スプリング・レイン(寒い)

・201904101112。下北沢のドーナツショップにて。デニムを修理に出す店が開店するのを待っている。待つ時間の幸福。病院の待ち時間も長距離移動の電車もライトな読書が捗る。ライトな読書をしている場合なのだろうか。そう問いつつしかしともかく春からのフランス語学習の再開と研究の再始動を具体的に始めなければならない。

 

・業務の契約に纏わる諸々の事柄はどうにか乗り越えることができた。ツイッターをしていると(呟くタイミングを失い続けながらも流れるタイムラインを眺めていると)フォローしている人の少なくない人たちが教育機関ないし研究機関に所属しているか関わっているから、契約やポストや授業準備や何かの話題が流れてくることが当たり前になった。誰もが色々な想いを抱えながら授業をしたり研究をしたりしている。自分が大学生の頃はテクノロジーの環境的にも単純に視野の問題としても、そうした大人の事情は見えなかった。見えたとしても理解できなかっただろうか。今は少なくとも見える。「透明性」。この数ヶ月にその言葉を何度か口にした。情報の透明性と言ってみて、自分がどのような「媒体」になり「フィルター」となっていることがあるかもしれなかったことについて考えた。私は透明ではない。透明になろうとすることもある。

 

・引き続き本を必要に応じて買いまくり、しかし同時に機材と服を充実させたいと思う。2019年の全体とその先を想像しながら。移動もしたい。消費のような投資、あるいは投資としての消費、しかし時々は祝祭的な浪費をしたい。5月の連休明けには友人たちと熊本に旅行にいけそうで、ちょうど一ヶ月先だが、そのことの意味を考えざるを得ない。それはただの旅行だが、しかし今の自分が今の自分になったのは、ただの山登りやただの花見に依るところが大きい。日常と祝祭。

 

コムアイという人が屋久島に行く映像を見てまた色々考えた。ポップスターは素早く移動する。マスの仕事をやりきったらすぐさまそれを相対化する。その時に何を見ているのか。映像の中で「何かを見ている姿」は比喩的な意味でもそうでなくとも、体全体で何かを指し示すことになる。何かを、どこかを、見ている人を、見る、という経験について。ニューエイジのようなことはいつでも(そうカテゴライズすることが既にして)茶化される。しかしそれでも、もちろんそれを折り込み済みで、ある方向についての表現を行うならば。指し示すという表現があるのだろう。中断。

 


水曜日のカンパネラ / YouTube Originals 作品 Re:SET 公開 / YAKUSHIMA TREASURE 発売記念 トークイベント