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  映像研究

3月は、

・試しにどんな些細なことでも、言葉でも、言葉の切れ端でもよいから、毎日更新してみようと思っているが、そもそもそれが大変だった。13日から毎日の業務。そして労働の問題により心身ともに重い。昨日は年度末。集まりがあり集まりの後の飲食もある。美味しんぼの話題でひと盛り上がりする。色々な人の色々な考えや生活や意志に触れることは普段静かな心を揺さぶる。まぁ楽ではないよね。とそのように軽く話し合うことのできる有り難さ。有名人が薬物で逮捕されることにも心を動かされた。実名のアカウントはいつでも自分の立場を表面する場になってしまう。どのような立場もあり得るとして今もまたそのような状況それ自体のことが自分は特に気になっている。「『自分の』『言葉で』『話す』こと」はいかに可能か。有名人の話題に対して別の有名人の発言を引用しながら自分の立場を表明すことに一体なんの意味があるのだろう。あるいはもっと素朴に「『自分の』『心で』『考える』こと」はどのようになされるべきか。もちろん人はつねに問われているし言い換えれば試されてもいる。日々誰かの「態度表明」を浴び続けている人はそれを自らの表現と取りちがえるのではないか。もちろん純粋ななにかがあるのでもないとして。どうだろう。とこのように考えたり考えなかったりしていると読むことは自然と中断する。カバンの中には引き続きランシエールの『無知な教師』。『感性的なもののパルタージュ』も持っていたつもりだったが棚になかった&アマゾンが「もう買いましたよ」と言っていなかったので購入して読む準備。せめて準備をしておこう。研究のメインのラインはしばらく手をつけずに置いてみる。