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  映像研究

移動

・201902151401。今日は一日家で作業をすることにした。とはいえ部屋の片付けと掃除、データの整理をしていたらあっという間に時間が経ってしまった。部屋が寒い。動作が鈍くなる。思考が途切れる。夕方からは恵比寿映像祭へ行ってみようか。許された週末の許された時間。本当はいつでも今でも許されているが時々はその許されている具合を確認する必要がある。それを確認する方法は何もしないあるいは無為な時間を保つこと。特に人と話をしないこと。

 

・移動あるいは「引っ越し」をした。「はてなダイアリー」から「はてなブログ」へ移動する。記事を移し、デザインを整えて、気になっていたいくつかのブログの「読者になる」ことをしてみた。ネットワーク上に言葉を残すことそれ自体は楽しい。ただソーシャル・ネットワーク・サーヴィス特有の配慮や目配せのようなものから遠いところで、ただ言葉を落とすようなことにとって心地が良いサーヴィスとそうでないサーヴィスがある。あるいは固有名と匿名の違いも関係がある。自分の場合は、気遣いのようなことは対面で充分なのであって(そこから得られる益も充分なのであるから)、ただ自分自身の言葉をマネージメントするために、サーヴィスを活用するだろう。数えてみたら12年、そのように時々書いていた。

 

・業務が気忙しい時期を何とかやり過ごしてからの一週間。とはいえまだ全然落ち着かない。少しずつ本を読むことを再開しなければいけない。この一週間はマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』と『わが人生の幽霊たち』を、そして『ダークウェブ・アンダーグラウンド』も。『分析美学入門』を細々と続けながら『分析美学基本論集』も読み始めてみる。『スクリーン・スタディーズ』はさらっと読んでみた。マノヴィッチについてのまとめも再開する必要がありそうだった。宿題を作ることで継続する。

 

・映画も見たい。昨日は調布でやっていた名画座的上映で『パルプ・フィクション』を鑑賞する。特に考えることもない、非常によくできた映画だった。ドラマを見たい。NHKオンデマンドで見たのは『ゾンビが来たから人生見つめ直した件』で、おそらくこういう設定は週刊誌の漫画では有り触れているのだろう。しかし漫画とドラマは違う。ドラマにある「間」や「溜め」は重要だと思う。結局自分はこのような真面目な心を「辛うじて温存させる」種類の映像にしか反応できないのかもしれない。自分自身のリアリティの外にあるものから何かを学ぶことができないのではないか。そのようなことを思う。あるいはドラマは「説教を聞くために」「説教をされるために」「代わりに説教をしてもらうために」見ているのかもしれない。