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  映像研究

Others

 
・201808280938。中央図書館で。今日はリハビリなどではなく作業を進めたいと思う。思いながら。急に牛腸茂雄のことを思い出し、古い雑誌を見直してみる。あるいは佐藤真『SELF AND OTHERS』も見直したい。夏の終わりだからか。牛腸茂雄も佐藤真も清野賀子も、みんないない。死んでいる。中平卓馬ジャン・ボードリヤールも死んでいるが、それとも少し違った感じを持っている。ダイアン・アーバスも。死んでしまった人が撮影した写真ばかり見ているような気がする。生きている人が現在進行形で撮影している写真の中にも、きっと自分にとってはっとさせられるようなイメージがあるはずなのだが、なかなかそう思うことができない。高橋恭司の写真は面白い。あとは誰だろう。ステートメントを実現するためのアリバイのようなイメージも、カメラを適当に振り回して獲得されたイメージも、もちろん誰かに出題された課題の解答として写されたイメージも、ましてネットワーク上での承認のためにアップロードされたイメージも、何も心を動かすことがない。自分がシャッターを押して浮かび上がったイメージも、今のところ大切な物と思うことはない。そういう心持ちで生きていないのだ。


・いつも「この忙しさが終われば、真剣な何事かを考えることができるのに」と思いながら暮らしている。誰もがそうであるだろう。「真剣な何事か」は難しい。いつでも誰かに邪魔をされることもあれば、ふと訪れることもある。せめて準備をしておかなければいけない。


・カメラとは何か。そのようなことを考えて、ふと20年くらいが経過していた。記録媒体の転換もあり、カメラと呼ばれる物を、というよりもアプリケーション(機能)が内蔵された物体を誰もが携帯するようになり、さらに人工的な空間には必ずカメラが配備され、カメラの死角にならないような場所はどこにもないように思われる現在ではある。それを「たいした変化じゃないよ」と完全に相対化するのではなく、同時に「まったく人の知覚が変わってしまった」と騒ぐのでもなく、そのような(緩やかな)変化、移行が、正しくどのような事であるのか。そうした問いを持ち続けながら、考えを書き、更新し続けるということ。


・そして自分でもカメラを扱いイメージを形にすることが、そうした思考の手がかりとなり、別の考えを呼び起こすための行為であるように。完全な外部でなく、もちろん癒しのようなことでもなく、生活の記録に留まらない実践の一部であるように。そういうあり方を目指したい。目指すために、なるべく具体的に思い描いておく。メモ、中断。