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  映像研究

夏休み、なおも回想

 
・201808121126。今日が夏休み最後の日。そう思って作業。8月後半はロスタイムのようなもので、明日からはまた夏の怒涛の業務期間が再開される。ああ、もう少しだけ中央図書館で微睡んでいたいなと思うけれども、そうしてばかりはいられないのか。リサーチと文献の整理だけでなかなか書く作業に進めないことも悔しいが、思い切って飛び込まないと何事も始まらない。だからこそそれ以外の様々なことをどうにかこうにかやり過ごしているのだ。書く作業に集中するために。心地よい種類の読書はもちろん心地よいのだが、一方で、わからない、うーんどう書いたものか、という種類の読書にも突入しなければいけない。突入できずにいる今。


・しかし回想はする。昨日ふと家や車に大量に収納されたCD(コンパクト・ディスク)を見返してみたところ、その中のKICK THE CAN CREW『タカオニ/カンケリ』という12cmシングルが出てきて懐かしい気持ちになった。自分はちょうど20年前に予備校に通っていた時に写真を撮りスライドショー的な作品の発表をして、その時のBGMとして(それが必要だったのかわからないが)そのCDに収録された『カンケリ』という曲のインストを使ったのだった(その曲はyoutubeにはない)。なぜそれをそうしようと思ったのかといえば、その前の年、高校の同じクラスだった野球部の部長に「実は自分は年齢をごまかして映画の専門学校に通っている」と話しかけられ「今度大森克己という写真家がゲストに来るのだが興味あったら一緒に来る?」と誘われて、行った講義の中で当時大森克己という人が制作していた「サルサガムテープ」のシリーズのスライドを見せながら、電気グルーヴの「新幹線」を流していたのを見て「ああ、こういうのやりたいな」と思ったから、という安易な発想があった。


・こうしてまったく思い出すこともなかった事が芋づる式に思い出される。あの野球部の部長はその後どうしたのだろう。全然知らない。当時はあまりにも「情報」を必要としていた。「情報」を得ることと、自分がカメラのシャッターを押し、そのシャッターの結果獲得された写真のイメージを見ることにしか興味がなかった。本当に他のことに全然一切興味がなかった。だから今高校生くらいの人と話していて「本読んだ方がいいよ」とか「展示見に行った方がいいよ」と言っても、通じる伝わる以前に、もっと別の何か必死な状態で過ごしていて、他人の(まして大人の)言うことなど届かないのだろうなと思ったりする。それに何よりも自分の力で手に入れた(と思えるような)情報との出会い方、それがその「情報」を特別なものにする。情報にはそれを得たプロセスが刻み込まれているのだ。そうして自分の中に無数の「物語(と言いたい)」が並走して大きな流れになる。その流れの中を生きている(無自覚に)。だから岸辺から「こっちに寄っていらっしゃい」と声をかけようが、届くはずがないのだ。届かなくてよい。聞かなくてもよい。


・今も自分は自分の大きな流れを持っているのか?その中を生きているのか?と問うてみて、それはきっと今もそうなのだ。流れ込んで来る支流の質や量に変化がありながらも、今もそれは変わらずそうなのだった(驚)。情報を必要とし、それを得ることが自分を新しくしている。言葉を書くことがその流れと循環を支える。そのことを確認する夏。今と当時で違うことは、完全に当てずっぽうで投げてみただけだった「言葉」が、今は確実に「ヒットしている」ことを感じているということだった。「生きてみないとわからないことばかりだった」と『すいか』の教授は言っていた。「大学教授なんて馬鹿な仕事」というようなことを言っていた。夏になると、とりわけ夏も後半になると、死んだ人を思い出すように『すいか』が放送されていた2003年の夏を思い出さざるを得ない。それはテレビ番組であることを超えて、もちろん情報であることを超えて、自分自身に刻まれている。毎週土曜日の9時にテレビから、特別な映像が放送されていた。「自分にだけはわかる」「自分のために放送されている」と本気ではなくとも、そうのめりこみつつ見ることができた。何か救われるような気持ちになる情報を求めていた。


・車の免許を取ったから友達を誘って夜にドライブするのが面白かった。あのボーリングに行った夜。友人から聞きたくもなかった話を聞き、踏切で転んだ老人を助けた。二つの出来事は印象的だが、それは別の日だったのかもしれない。hydeout productionsの『first collection』というCDばかり聴いていた。