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  映像研究

飼い馴らされた

 
・201808061028。調布のコーヒー店にて少しだけ(少しでも)作業をすべくin。このコーヒー店の本棚は良い。普通に良い。売るための本棚でないことがこの良さを生むのだろうか。いまは「叢(くさむら)」というサボテンの本をぱらぱらしながら、その自分が知らない何かの奥深さに驚いている。自分が知らない何かの奥深さを感じることは面白い。いつもそう思っているのだけれども。


・昨日は図書館で作業した後、車で家族と中央線方面へ。道中TOKYOFMで村上春樹のラジオ。村上春樹からJ-WAVE野村訓一へのリレー。真夏の夜のドライブ。某古本屋で中平卓馬の『documentary』を見つけて購入。買おうかどうか迷っていたのだから自分への誕生日プレゼントということにする。他にも『日本、家の列島』という本をえいっと購入。住宅についての自由研究も決して手放さないようにという戒め。何かの紐を緩めて本を買うことは少し楽しい。その後夕食はカレーを食べて、車だからお酒は飲まず帰宅。今夜も熱帯夜。もうずっと熱帯夜。


ボードリヤールの詩集を翻訳してみたが、やはりグーグル翻訳の限界、というか元々自動翻訳に過度な期待などしてはいけないのだし、ましてや詩のことなんてグーグルに尋ねてどうなるものでもない、ということを理解した。あるいは詩における改行と言語の差異について、初めて考えたかもしれない。日本語の詩における改行の「ある感じ」、センテンスの句切れを故意にずらすような、息継ぎをするタイミングを揺らがせることであるグルーヴが生まれるような感じは、他の言語たとえば仏語であればどうなのか。自分は知ることはできないのだろうか。自分の母語ではない言語について、単語をいくつか知り、文法を多少学び、あるいは会話で意思の疎通らしきことが可能になったとして、それらのコミュニケーションを支えているのであろう(言語化しづらいような)ソースのようなもの、それを感じるには、一体どれだけの勉強や経験を重ねれば良いのか。フランス語を母語とする友人がいれば良いのか。


・「(言語化しづらいような)ソースのようなもの」、あるいは「ある感じ」、そういうことが気がつくと自分の中心に、根底にあって、それで日々のコミュニケーションをしている。それで給料をもらっているのかもしれない。それは閉じているということなのだろうか。いまそんなことばかり考えてる。


・調布のコーヒー店の空間は整えられていて、シンプルだけれども都会的過ぎず、つまり居心地は良い。プレイス武蔵野にも通じるような、誰もが「自分の身の丈にあった」というような感覚を覚える空間なのではないか。空間は人の意識に作用する。自分の着ているものとこの空間にある統一を感じ取るようなことが起こる。それを「飼い馴らされた」と感じることも重要であると同時に、「飼い馴らされる」という表現が持っている(比較的)否定的な意味、誰もが「飼い馴らされていますね」と言えば、それを侮辱だと感じるのだろうか。しかしその「飼い馴らされる」を「飼う」と「馴れる」の意味に分解して、たとえば、自分は空間を、洋服を、文章を「飼い馴らす」こともしている、と考えてみてはどうか。「耕す」というような意味で。