&

  映像研究

(山登り以外にも)色々な場所へ出かける一週間。長い回想/備忘録。

 
・(山登り以外にも)色々な場所へ出かける一週間。というかほぼ、二週間。師走の師走らしさに翻弄されつつあることが恐ろしい12月は前半。思い返してみれば先週末はフライデー・ナイトに、(元)職場ことチーム・ヤングエグゼクティヴな100名くらいの大忘年会へ行ったり、サンデー・ナイト(っていう言葉あまり聞かないな/早く帰って寝るべきなんだろうな)には現業務のチーム・イメージングのセイント達と打ち上げ兼ミーティング兼冬の業務の決起集会。また酔っぱらって「精霊の話(not スピリチュアル)」をしてしまったことを軽く後悔する。人間を分類するのはいかなる状況においても慎むか、もしくはコンセプチュアルであることを突き詰めることではぐらかすべきだと、お酒を飲んでいない自分は強く思う。



・そのような日々に、例えば月曜日には人生で初めて眼鏡を購入する。職場で数人で視力の話をしていた時に「最近見えづらいんだよね〜」と言ったら後輩女子に「老眼ですか?」と言われて、笑いつつ/どつきつつ/否定しつつ、しかし「あれ?そうじゃないとも言いきれないぞ」と思った、その出来事は理由ではないなりに、人生で初めて購入した。運転の時に必要かもしれないからが理由の2割。オシャレ心が1割。吉祥寺の某ショップの眼鏡コーナーの店員の女性が素敵だったから視力検査するだけのつもりがつい購入してしまったのが残りのすべて。まぁ色々だ。そうしてさらに来週からの冬の業務習慣に備えて散髪もして、そして夜には山部の部長ことTKD君が高尾に引っ越してきたのでその手伝いに行くつもりが、完全に夜遅くなってしまったので「引っ越しカレー」を食べるためだけに訪問する。色々と物色して、全く根拠の無いレイアウトプランを提案する。迷惑だったかもしれない、しれないけれども仕方がない。なぜならばそれこそがご近所/物語だからだ(開き直り)。



・そのような日々に、例えば火曜日には電車を乗り継いで向ケ丘遊園にて下車。「岡本太郎佐内正史」とだけtwitterでつぶやきつつ、展覧会を観に行く。プリントをお手に取ってご覧頂くという展示方法はなかなか面白いなぁと思う。閉館ギリギリに駆け足で観賞したならば、その後は同じく向ケ丘遊園で某一般的な大学の主催で開催されていた『宇川直宏氏講演「映像表現史」講義』というものを聴講しに行く。「向ケ丘遊園で宇川直宏」とだけつぶやきながら、メモを取りつつ聴講するが、物凄いスピードで100年間の(特殊な)映像史を駆け抜けるというトークの内容だったので途中からはメモを取るのを諦めてただただ観る。辛うじて「パイク『CMを待ちながら』」「PVは翻訳、VJは同時通訳」とだけメモされていた。高城剛という人の大学時代の映像作品的なものはなかなか味わい深かったなぁと思う。そうして色々と思い出しながら夜には小金井にて秘密の(全然秘密ではない)MTG。大層美味しいパンやチキンを試食する系のMTG。しかもパンをお土産に頂く系のMTG。ごちそうさまでした、とだけいうわけにはいかない。準備しなくてはいけないことがある。



・そうして水曜日は業務に行きながら山の連絡網をフル回転させる。旺文社から出ている「山と高原地図」の「奥多摩」のものが売り切れ(出版元も?)っていう情報がメーリングリスト的に駆け巡る。凄いな。だれもが奥多摩に行っているのだなと思う。そんなこともないのか。しかしそしてなんとか紀伊國屋にありました。



・そのようにして山に登った木曜日を挟んで金曜日には、山の余韻と冷たい雨とで色々なことが先送りになる。仕方がない(開き直り)。それでも昼過ぎには外出して荻窪は「ささま書店」をディグったのち神保町方面へ。レンタルショップ「J」にて業務で試用する映像ソフトをレンタルしたのち久しぶりの「丸香」へ。「寒いときこそ月見山は冷」とつぶやきつつ無心でうどんを食したのち、石井スポーツからさかいやへ。夕方からはひょんなことから見つけた古書関係のイベントを聞きに行くために西日暮里の「古書ほうろう」という古書店へ行く。普段古本を買ったり読んだり貸したりアレしたり、あるいは本についてぼやっと考えていたするものの、他の人と「本」について話をすることはあまりない自分のような人間にとって、とても面白い内容だった。そしてどの世界にもラディカルである結果として、問いに答えるつもりが別の問いを発してしまうような態度の人がいるのだということがわかって、何というか非常に勇気づけられた。



・そして、アウトプットがスマートだったり/オシャレだったり/かわいらしかったり/ユーモア満載であったり/チャイルディッシュだったり/よしんばクウネル的であったりしたとしても、そこにはそれぞれの論理や、何かへの抵抗や、自分の中での対立のようなものが、当たり前だけれども含まれている、というようなことを(もうしばらくだけれども)最近ずっと考えている。思想から遠いところにあると思われている、様々な場所にある思想。