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  映像研究

物と大気

・201910030839。午前中は荷物を待ちながら家で作業することにする。10月から新しくNHKラジオの「まいにちフランス語」がはじまり2019年も下半期なのだとあらためて思う。月火水の「入門編」もためになるけれども木金の「応用編」が今の自分にとってはちょうど良いレベルな気がする。2日くらい空くと抜けてしまうからまいにち少しずつでも、と受験生に言うように(自分に)唱える。

 

・昨日は神保町のカフェで作業後に銀座のニコンサロンで一之瀬ちひろ「きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について」を鑑賞。葉山のインスタレーション形式の展示にとても惹かれるものがあったが、額装された写真が並ぶ展示も別の魅力があった。当たり前だけれども一枚の写真と向き合う感じ。展示が均一だからイメージの差異を強く感じる。「つつむ」「ひかり」について考えながら渋谷へ移動してwifiに優しいカフェに入り一時間くらい作業。

 

イメージフォーラムにて業務の同僚でもある作家の上映。この作品についてはあまり予備知識なく見て、アフタートークで制作について聞いて、より興味を持った。イメージ、発話、テキストのあいだを揺れながら、他者、動物、人、死、について思う。イメージ/サウンドに意味が付随していると前提することがそもそも間違っているのではないか、ということを考えながら帰宅。鑑賞から自分の課題を引き出す。同時に先週駆け込んだ千葉県美のかつての同僚の展示もそうだったが、直接知っている人の展示を見てその人/作品の印象が更新されることが自分にとっては重要だということを自覚した。作品と作者の関係というだけでなく、その人の存在感とイメージを扱う手つきのようなものが重なったり離れたりすることからは、もう少し何か考えられることがある。

 

・自分にとってクリアに感じられる映像を見ることは思考を引き出す。「物」が映っていることは確かにそうなのだけれども、同時に「大気」のようなものが映っていると思うことはどういうことなのだろう。「風景」を眼差す行為としてだけではなく、大気=現象として捉えること。その関係を考えることに課題があるかもしれない。中断。

10月になった

・201910021420。神保町のコワーキングスペースにて。毎週水曜日はフランス語の授業に出てそのまま神保町まで歩き学食的な蕎麦屋うどん屋、おにぎり屋などで昼食。大抵はその後業務の準備のために職場に向かうが今日はそれを免れているので、夜の予定までの時間そのまま作業することにする。

 

・昨日で業務の仕事のひとつが終了。撮影し、編集し、最終的な納品はDVDのオーサリング。終了した直後に職場の共有スペースにて「今DVD全然使わない」という話題で会話。10年どころか5年でも急激にメディアの環境は変わる。そう考えながら神保町のユニオンなど眺めてみるとCDもDVDもほとんど投げ売られている。レコードはまた違った印象を与える。購入するのに何らかの覚悟を要求してくるサイズ。記録メディアについて考えることもある。メディアを所有することについても考える。

 

・週に一度神保町に来て良いことは、古本屋で写真集を見ることのみならず、額装されたプリントが置いてある店があることで、先週友人と話していた時にも、写真を額装することとはどういうことなのか(どういう態度なのか)というような話題があり、その前から自分の写真を自分のために額装してみようと考えていた。今年中にできれば良いが、そのためにはそもそも額装したいと思う写真を撮影しなければいけない。あるいは既に撮った写真を丁寧に見ることをしなければいけない。写真を見ることと同時に写真を所有することについても考える。

 

・10月に入る。入ったが暑い。毎日夏よりもTシャツを着ていて羽織ったシャツやカーディガンをリュックサックに詰める。全然秋らしい感じがない日々。しかしおそらく10月で一気に、驚くように、忘れてしまうほど、涼しくなるのだろう。そのことを記録しておこうと思った。あらゆる意味で予定より大幅に遅れたまま2019年度の下半期、あるいは2019年の残り3ヶ月に突入する。健康で気候も良い。作業のため中断。

9月が終わる

・201909300905。自宅にて荷物を待ちながら。光速で9月が終わる。予想はしていたが予想通り予想以上に業務の諸々に追われて頭をはたらかせること、正確には思考する時間を研究に向けることができない。できない、できていない、ということをせめて記録しておこうと思った。格闘は続く。

 

・振り返れば先週の水曜日には元同僚かつ友人と神泉で食事。近況報告という名目で自分の研究や制作の構想など話す。重要な指摘をもらう。それにしても神泉の駅周辺の感じは良かった。30代の芸祭という雰囲気。酒場の色々なことが許されている感じは救いでもある。健全に日付をまたぐ前に井の頭線に飛び乗って帰宅。

 

・今年度に入ってから手元に置いておきたい写真集をなるべく購入するようにしている(金額的に無理のない範囲で)。先週は古典かつ学生の頃から繰り返し各所で立ち読んできた2冊を購入してみた。Stephen Shore『Uncommon Places』とEmmet Gowin『Photographs』。写真の展示もなるべく見たい。壁面にイメージが置かれていることやライティングの感じとか、気をつけて見てみたい。ほとんど情報がないがSNSで上海のボードリヤールの展示の様子を見て、やはり無理してでも行けば良かったかなと考える。ボードリヤールの写真は展示される際、結構大きい。

 

・「無理してでも行けば良かったかな」つながりでは、同じ言葉を現同僚かつ友人から、あいちトリエンナーレについて投げられた。署名したことを自分の責任(?)として、9日、10日あたりを狙って、夜行バスでも使って、駆け込んでみようか。いずれにせよ生活圏とは異なる場所で作品の展示を見ることは最も贅沢でかつ思考に必要なことでもある。可能な限り。2019090300943。荷物が来たので中断。

メッセージ

・201909270028。日付をまたいで。あいちトリエンナーレ補助金交付中止の問題でTwitterFacebookのタイムラインをスクロールしていたら眠れなくなってしまった。言葉を失う。元々言葉を失い続けながら今の状況があると思っているが、この出来事に関しては、今まさに言葉を発する力が抜き取られるような感覚もある。これまでの日常的な自分のコミュニケーションのすべてが無意味に思えるような感覚すらある。この状況で本当に有効なメッセージとは何か。

 

・オンラインの署名をする。SNSで賛同を示す。それは自分にできることだ。もしも業務を免れていたならば文化庁前に行ったかもしれない。「多くの人間がこの判断を間違っていると考えている」ことを表象する一部になる。その一部になることを受け入れる。それも一つのメッセージであると思う。この場合のワン・イシューは「交付中止の撤回」であるだろう。しかし誰もが気づいていてゆえに言葉を失いそうになるのは、このような決定をしても許されると判断したその基準となる雰囲気が確かに存在することである。その雰囲気の中で生活していることを認めることは苦しい。

 

・ワン・イシューを大きくしていくことが、ひとつ。しかし別のメッセージを構想する必要がある。「本当に有効なメッセージ」とは、そうした雰囲気に対して何ができるかということであるのだ。しかし「分断」は問題ではない。「分断」という語は偽の問題であるように思う。考えや嗜好の違いはいつでも同じように存在していたように思う。だから「孤立を恐れず自分の言葉でメッセージを構想すること」を促すことが、もうひとつ。個が個としてメッセージを発することを肯定して、なおかつ暴力と批評性に対して常に敏感でありながら他者の声をよく聴こうとすること。そのような態度を指し示すこと。

カメラをうまくはたらかせること

・201909250016。日付をまたいで。連休をいくつか含めて慌ただしく時間がすぎていく。台風もすぎた。記録したい出来事も、メモしたい言葉も、見せておきたい景色(イルリメ)もあるが、そのどれもままならない。複数の事柄を手放さず、かつその事柄のどれもにしっかりと意識をはたらかせながら生活することは極めて難しい。難しいということだけをひとまず記しておこうと思ったのは、最近いくつかのブログを読みながら、あからさまな広告でもなく、自分を痛めつけるためでもなく、日々のエピソードを書いておくことは面白く、かつどこかでそれを偶然他者が読むこともまた善いことなのではないかと考えたからだ。そのために何かを書く。

 

・明日から(正確には今日から)フランス語の授業が再開される。週に一日の授業はリズムを与えてくれる。進めば進むほどに自習が必要になってくるのはそういうものなのだと思いつつも、全然「ある段階」を越える感覚がない。毎日少しずつでも勉強することが必要なのだと思う。当たり前のことを書いている。

 

・久しぶりに神保町を歩き、ふと入った古書店で約一年探していた雑誌WERKの2003年の号を発見して即購入する。某別の古書店の1/3程度の値段で買うことができた。やはり何事にもタイミングがある。清野賀子の撮影した2003年の東京の写真を見る。自分が知る限りこれが「至るところで 心を集めよ 立っていよ」という言葉が記された最初の仕事ではないか。同じ言葉をタイトルにした写真集に載る写真とはかなり違う印象を受けるのは、撮られた時期の違いもあるのだろうか。これらの写真は少なくとも清野賀子の写真を見る自分にとっては決定的な仕事だ。この写真を見ることから、また考えることを続ける。

 

・これらの写真を見て、写真について考えることから「カメラをうまくはたらかせること」という言葉が思い浮かんだが、その言葉をどのように展開できるだろうか。まだわからないが何かの予感がある。カメラの「はたらき」はもちろん「写すこと」であるのだが、「うまく写すこと」と言った途端に別の意味にスライドしてしまう。

 

・ダナーの靴を買った靴屋さんに持って行き修理を頼もうとしたところ「もうこれは修理不可です」との返答。13年履いていて、前半6~7年は山に行き、その後は主に寒い冬と雨の日に。確実にこの10数年で最も履いた靴だった。「修理できる物」にも「修理できない限界」があることは考えてみると面白い。「元に戻る」ということはない。それは別の制作が加えられるだけだ。別の制作を加えようにも手詰まりという状態がある。それは完成なのか。これからは雨の日以外に少し手加減して履こうと思う。

 

・201909250101。書きたかったことは他にもあるがまた別のタイミングで書く。